寒田瑠花のライター生活を晒す場所(主に)。仕事用のアドレス作りました! kyoumo.kaeru@gmail.com 書きモノやライブへのお誘い、音楽談議など、何でも歓迎。四次元ポケットみたいなもんです。


by rukasoda

彼らの世界は、すこしだけズレている

b0188319_15261265.jpg

(手前:ニューアルバム 奥左:1st)

SuiseiNoboAzの2ndアルバム『THE (OVERUSED) END OF THE WORLD and I MISS YOU MUH-FUH』。この作品のリリースを、わたしは一年近く待ち焦がれていた。発売日に買い、家に帰ってすぐイヤホンで聴いた。音が鳴りだすと、耳と頭が一緒に震えている感じがして、一曲目を聴き終わらないうちから、この作品全体が最高の仕上がりになっていることを確信した。もちろんアーティストからしてみれば、アルバムの完成=最高の仕上がりであることは当たり前だと思う。けれどリスナーにとっては、そのアーティストのファンでもない限り、捨て曲なしのアルバムに出会うことは案外むずかしい(実際わたしが彼らの1stアルバム『SuiseiNoboAz』の全曲を好きかといえば、そうではない)。
そんな中で、“今回のボアズのアルバムは最高のモノになる”というわたしの予感は裏切られなかった(もちろん最後まで)。去年9月の新宿で、わたしが最後に観た彼らのライヴ――あのとき感じたあの気持ちが、CDの音と一緒になって蘇ってきた。

彼らの前作は、向井秀徳がプロデューサー/エンジニアを手掛けた話題作だった。しかしそれと同時に、その音楽性はどうやってもNUMBER GIRLZAZENBOYSを意識せざるをえないものになっていた。現にその点に惹かれた人やそこから彼らの批評を展開する人も多かったと思う。今作品においても、向井氏から貰い受けたモノの片鱗はもちろんある。だが、それは前作ほど露骨なものではなく、せいぜいバンドのひとつのルーツとして存在している程度だ。むしろ今作品以後にSuiseiNoboAzというバンドを批評するとき、必ず語られなければいけないのは、彼らが確立しているその世界観の方だろう。

先ほども書いたとおり、わたしは去年の夏頃からこのアルバムを楽しみにしていたわけだが、その理由として、去年の9月に新宿で観たボアズのライヴに衝撃を受けたことがあった。正直、1st発売直後のボアズの新曲には、身体性はあるものの、それが誰の肉体なのかわからないような、不一致の感じがすごくあった。ローテンションでグランジっぽい曲もあれば、楽器で空間を震わせることに固執したようなサイケな曲もあったが、そのどれもが太く短いボアズの音楽性に合致していない気がして、聴いていても明確な作品として入ってこなかった。
だが、その数か月あとのライヴには、ピクシーズに負けるとも劣らないグッドメロディの新曲ばかりを鳴らす彼らがいた。ここでいうグッドメロディというのは、前作に収録されていた「Happy 1982」のような曲調だ。彼らには、獰猛なビートやエッジのきいたサウンドのほかにも、この曲のように思わず心臓を鷲掴みにされるノスタルジックで甘美なメロディという武器があった。生粋のメロディフェチであるわたし自身も、彼らのそういった部分にやられてしまった人間だ。
そのときのライヴで『THE (OVERUSED) END OF~』から演奏された曲は「shoegazer」(3曲目収録)「arizona」(6曲目収録)「Ask For Tiger」(9曲目収録)との情報があったので、わたしが興奮した曲はおそらく「shoegazer」なのだが、この一曲に限らず、今回のアルバムの楽曲は総じてメロディがすばらしい。聴いていると、白黒の風景(世界の名所とか渋谷の街並みとか)に極採色のペンキがブチまけられていくような映像が浮かんできて、恍惚としてしまう。単純に好みの問題なのかもしれないが、彼らの魅力はこういったケバケバしいロマンチシズム、もっと言えば“自己陶酔”を表現したようなメロディにこそあるのではないだろうか。

しかもこのアルバムは、ただ耳を傾けているだけなのに、まるでどこか別の、ここからすこしだけズレた世界で起こったいくつかの寓話を聞いているような感覚になる。これは、一貫して鼓膜を震わせている歪んだサウンドが、リスナーの脳内に別世界を生み出す手伝いをしているだけでなく、ヴォーカル石原の掠れた声帯が、まるでファンタジーの中の旅人のように、猥雑な物語を囁きかけてくるせいだろう。
もともと石原の歌詞と声にはオリジナリティがある。彼は日本語のアクセントやカタカナ語のユーモアなどを意識した上で、ロック好きのリスナーに対して戦略的かつ効果的な歌詞を書いている。今作品でも、現状の世界に対する罵倒の言葉をぶっきらぼうに並べながら、同時に“赤白帽ゴムの味”“甲州街道はすいかのにおい”“横浜 市民プールのにおい”“11月末託された 牛丼屋の割引券”“環状七号近くでピアノのお稽古が始まっている”“便所サンダル履きの足の裏に感じている”といった自分の内部にしか存在しない物語(記憶や引用が混じったイメージ)を匂わせては、独自のロマンティックな世界観を提示している。わたしが彼をミッシェル・ガン・エレファントチバユウスケと重ねてしまうのは、そういうレトリックのうまさのせいだと思う(ちなみに声は全然似ていないと思う)。

おそらくこのアルバムを制作する過程で、彼らはバンド独自の“世界”を構築していく作業にもっとも集中したんじゃないだろうか。それはサウンドの追求や作詞の細密化だけでなく、バンドの概念を再構築する作業でもあったと思う。メジャーの初っ端でその力を称賛されながら、1年10か月という期間をかけて完成させたこのアルバムには、そういうところまでこちらの想像をかきたてるほどの重みがあるのだ。それと同時に、こんなにも迷いのない作品を生み出してしまった彼らが、今後どのように物語を展開していくのか――そこに誰もが注目していると思う。

現在、SuiseiNoboAzというバンドには強く鋭い光が射している。彼らの音楽は決して大衆全体に開かれたものではないけれども、その大衆の中で、タフな精神を持つがゆえに疲弊している人たちを元気づけられるのは、まちがいなく彼らの音楽だと思う。
熱帯夜っていうだけで苛ついている人がいたら、“そんな夜にこそ、このCDをひとりで聴け”とおすすめする。
[PR]
by rukasoda | 2011-07-30 15:28 | 音楽ライティング